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志野水指

捻貫 一重口 渋紙 椿手 黄瀬戸 志野 織部

重文 志野水指 銘古岸 畠山記念館蔵

志野(しの)は、桃山時代に美濃で焼かれた白釉の陶器のことをいいます。
志野は、素地は「もぐさ土」という鉄分の少ない白土で、長石質の半透明の白釉が厚めにかかり、釉肌には細かな貫入や「柚肌」と呼ばれる小さな孔があり、釉の薄い口縁や釉際には、「火色」(緋色)と呼ばれる赤みの景色が出たものです。また志野では、わが国の焼物ではじめて筆による絵付けが施されました。
志野は、絵模様のない「無地志野」、釉の下に鬼板で絵付けした「絵志野」、鬼板を化粧がけし文様を箆彫りして白く表し志野釉をかけた「鼠志野」、鼠志野と同じ手法で赤く焼き上がった「赤志野」、赤ラク(黄土)を掛けた上に志野釉をかけた「紅志野」、白土と赤土を練り混ぜ成形し志野釉をかけた「練り上げ志野」があり、さらに近年、大窯で焼かれた志野(古志野)と区別し登り窯で焼かれたものを「志野織部」と呼んでいます。
志野は、元禄(168〜1704)頃までは織部焼と目されていましたが、宗旦晩年の弟子の城宗真が茶入を「篠」と銘したところ、世人が「篠焼」と称えたといい、享保(1716〜1736)頃から諸書に「シノヤキノ」「志の焼」「シノヲリベ」「シノ焼」「篠焼」など志野の名が見られるようになり、そのようななかで志野宗信の所持したという「志野茶碗」と「志野焼」とを混同し、志野宗信が瀬戸に好みを授けて焼かせたものとされるようになりますが、昭和5年(1930)の荒川豊蔵(1894〜1985)の古窯跡調査以降、美濃の可児・土岐などの窯で黄瀬戸・瀬戸黒・織部とともに焼かれたとされるようになります。
志野水指は、口の内側に置蓋の段をもつ「矢筈口」(やはずくち)が最も数が多く、重要文化財に畠山記念館所蔵「志野芦絵水指 銘古岸(こがん)」、香雪美術館所蔵「志野山水文矢筈口水指」があります。

『堺鑑』貞享元年(1684)に「志野茶碗 志野宗波風流名匠にて所持せし茶碗也 但し唐物茶碗の由申伝。」とあります。
『万宝全書』元禄七年(1694)に「一、織部燒 △茶入。△沓茶碗とてせいひきく、手あつにゑくぼ入、土色白く、黒薬、薄柿、濃柿、白薬に、くろき染付の絵有、地薬白きはくはんゆう有、形は色々かはり有。」とあります。
『槐記』享保十一年(1726)二月二十日に「茶碗 新渡の雲鶴、次茶碗 志野焼の白」、同十二年四月三日「御皿 かき鯛、いり酒、みる、山葵、皿志野焼」、同極月十日「御水指 志野焼、塗蓋、手付口あり」、同十三年十月二十六日「茶入 志野焼、車軸の形、袋 純子」、同十四年三月四日「茶入 志野、織部 袋 焼切れ時代、金紋蘆の模様、新く仕立られたりと見ゆ」とあります。
『志野焼由来書』天明五年(1785)に「伝言、文明大永年中、志野宗心と云う人ありて茶道を好む故に、其の頃加藤宗右衛門春永に命じて古瀬戸窯にて茶器を焼出す、是を志野焼と称す。」とあります。
『陶器考』安政二年(1855)に「一、瀬戸窰志野焼 志野宗信物好にて呂宋白薬の沓鉢を茶碗とす、是より志野茶ワンの名出る、後、今井宗久へ伝はりし由、名物記に唐物とあり、此茶碗の出来振ぶりを尾州にて写したるを志野焼と云、呂宋安南ものに志のによく似たる物あり、土薬をよくよく見分へし、志野とも織部とも画からつとも見分かたき品又志野織部と云来る中にあり」とあります。
『和漢名器博覧』に「一、志野織部 地白薬厚く掛り、黒金気に桧垣、輪違、其外絵躰不知もの書て有、赤みあるを賞玩す、形ち手造りにて箆目杯有り、織部焼にて志野宗信好と云説有れとも難信用」とあります。
『鑑定秘書』に「茶碗近来有り、真織部、是は近代の名也、大坂宗真、茶入篠と付、世の人是を合点して篠焼と云ひ真織部也」とあります。
『名器録』に「織部、黒織部御好を志野と云、大坂城宗真と申者此もの名付申候」とあります。

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