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大西浄玄
浄林 浄清 浄玄 浄頓 浄入 浄元 浄玄 浄本 浄元 浄雪 浄寿 浄典 浄長 浄中 浄心 清右衛門
大西浄玄(おおにし じょうげん)は、江戸時代中期の京都三条釜座(かまんざ)の釜師で、大西家の七代目です。
大西浄玄は、姓は細野 幼名を清吉、名は未算、通称は清右衛門、入道して浄玄と号し、「くろ玄」と呼ばれます。
大西浄玄は、ニ代浄清に次ぐ
名手と言われ、大西家では中興の祖とされ、布巾を丸めて肌を打ち口作りに荒れを入れて景色を出したり、唐銅蓋に赤味を加える大西家独自の蓋作りの伝統を打ち立てます。
大西浄玄は、釜肌は中荒肌で、作は入念、よく整った美しい気品のある釜が多く、唐銅蓋が上手といいます。
大西浄玄は、表千家八代啐啄斎好みで、玄の字釜とよばれる、「玄」の文字を底に鋳出した阿弥陀堂釜を三十口鋳ます。
大西浄玄は、表千家六代覚々斎門下四天王のひとり三谷宗鎮に茶を学び、絹物を身に付けなかったところから、茶人仲間から「浄玄の布子手前」と謳われたといいます。
大西浄玄は、共箱は「細野」の印を用いています。
大西浄玄は、天明三年(1783)六十四歳で歿します。
『茶道筌蹄』に「浄元 浄清の子也、浄頓(浄元の子)、浄入(浄頓の子)、浄元(浄入の子)、これより道翁死後千家へ出入となる、浄玄(浄元の子)、清右エ門(浄玄の子)早世す故に弟子與兵佐兵衛家をつぐ、後浄元と云ふ、其子清右エ門大西にかへる、弟佐兵衛奥平と云ふ、清は大西、入は廣瀬、初の元井上、後の元細野、佐兵衛より大西」とあります。
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