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六畳

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六畳

六畳 薮内家学市軒

六畳(ろくじょう)とは、丸畳五畳の客座と丸畳一畳の点前座で構成された茶室のことをいいます。
六畳は、古くから設けられ、貴人や道具持ちの茶の湯に相応した広さの座敷とされ、村田珠光の座敷も始めは六畳敷であったといい、織田信長が安土城に営んだ茶席も六畳敷だったといいます。
六畳は、薮内家の稽古場の本勝手四畳半切壁床「学市軒」(がくしけん)、裏千家十四世淡々斎嘉代子夫人好みの本勝手四畳半切上座床「又新」(ゆうしん)などがあります。

『宗長手記』大永六年(1526)八月十五日に「下京茶湯とて、此ごろ数寄などいひて、四畳半六畳鋪、おのおの興行」とあります。
『分類草人木』に「昔は横六帖敷也、中比より四帖半になる也」とあります。
『烏鼠集』に「貴人之御茶湯の座は六畳敷相応す、其謂いは、如何に茶湯とあり共、ひさつきにはあらぬ物なり、御相伴と少間を置、をそれある風情にて着座す、もの置は四畳半よし、其謂は知心之旧友、好事之遊客に三輩のも、或は翫香花或は展字画、食淡飯、喫酒菓、然而後、呑賞精茶、其座広則雖防推参、呼遺人之恨あれは也」「珠光、松本、志野まては六畳敷也、前に申有口伝、堺の金具屋にて四畳半を仕初し、道具なきには六畳さひしきとて」とあります。
『山上宗二記』に「右此座敷紹鴎の移し也、但し北向坪ノ内又は見越に松大小数多し、天井のね板、柱、絵、真のはりつけ黒ふち有り、かつてふすま障子、黄引手、書隠二間ともに四帖半也、其後宗久、宗易、宗瓦、宗及、拙子式迄仕候、此外の唐物持、京堺悉く是を移す、又珠光かヽりは、北向右かつて、坪の内に大なる柳一本在、後に松原広し、松風計聞く、引拙は南向右勝手、道陳は東向右勝手、宗達右勝手、何も道具に有子細歟、又台子をすくか、将又紹鴎之流は悉く左勝手北向也、但し宗易計は南向左勝手をすく、当時右かつてはを不用と也、珠光は四帖半、引拙は六帖敷也」とあります。
『信長公記』に「天正六年戊寅 正月朔日、五畿内泉州越州尾濃江勢州隣国之面々等、安土にて各御出仕御礼在之、先朝之御茶十二人に被下、御座敷右勝手六畳布四尺縁」とあります。
『茶湯古事談』に「むかしは茶会の席とて別に定てはなく、其席々々に見合て炉を切て点し、珠光の坐敷なとは六畳敷なりしとそ、但し炉の切処は何畳敷にても三所有、其伝にあけて切と、さけて切と、道具畳の向ふの地敷居へをしつけて切との三所也、然に武野紹鴫か四畳半の座敷を作り、はしめて炉を中に切しより以米、四畳半構へと云事有、又其後、千利休三畳大目構の座敷を作り、初めて炉を中に上て切しより、大目構の炉といひならはし、共頃より昔からいひ伝へし、あけて切、さけて切といふ詞は廃りはてゝ、今世杯は昔かゝる事有しと云事を知らぬ茶人多しとなん」とあります。
『源流茶話』に「いにしへ、義政公は八畳敷に台子をかさられ、玉澗の八景八幅対を掛させられ候、珠光始めは六畳、又、維摩居士之方丈に則り、四畳半を数奇屋と御定候、紹鴎迄も四畳半に限候得とも、利休にいたり、三畳大目・二畳大目・一畳大目迄の小座敷を作意し、中柱を立られ候、しかれども、珠光の本意をうしなはす、方丈之内を出すしてしつらはれ候也、口伝」とあります。
『茶道筌蹄』に「小座敷 四畳半以下を小座敷と云ふ、四畳半以下は初後共に座はきをなす、四畳半以上は道具畳ばかり座はきをなす、尤はきこみなし、皆座はきすることは騒かしきゆへなり、圍の初は珠光東山殿正寝十八畳の間を四ツ一かこひたるが濫觴也、其後紹鴎六畳を好み、又四畳になす、道幸をつけるは利休形也」とあります。
『茶譜』に「古より紹鴎時代まで、茶湯座敷は八畳敷、或は六畳敷に仕て、其外に縁を付、松木の極上の真を削、木賊を以楷、椋の葉で磨て、色付の角柱にして、座中へ不見壁を端板を打、床中を白鳥子の紙張、楷板の鏡天井なり、真塗の台子を置、唐物の茶入を盆に乗て、台天目を用ゆ」とあります。

     
外観  天井    出入口
     
    台目構  水屋

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